遺言。



この世界で、紛うことなく、ただひたすらに、生きようとするあなたへ。


何もない夜だった。
星もなく、月もなく。けれど一面に靄のかかった様な、薄暗い空の色を宿した、夜。
暗い部屋で一人、まどろんでいた男は、電話の音に気が付いて躰を起こした。
つけっぱなしにしていたテレビからは、肌を露出されたあまり名の知られてないアイドルがきゃあきゃあと暢気に騒いでいる。
鳴りやまない呼び出し音を煩く思いながらも、男は受話器を手に取った。
「もしもし」
『……寝てた?』
受話器の向こう側から聞こえて来たのは、聞き慣れた女の声。男の彼女のものではない。高校の時同じクラスになってから、何故か腐れ縁の様にして今まで関係が続いている女のものだ。
「どうしたんだよ」
いつも女は、携帯に電話をかけていた。こうして自宅にかけてくるのはかなり珍しい。テーブルの上に投げ出された携帯に目をやるが、不在着信の履歴は表示されていなかった。
『ちょっとね、聞きたい事があって』
「何だ?」
今付き合っている男と喧嘩でもしたのだろうか。そう思いながら、男はのんびりとした口調で女の言葉を促す。受話器の向こうから、微かに、息を吸う音が聞こえた。
『「生きて」と、「死なないで」って、どっちの方が相手に拘束力を持つと思う?』
「………は?」
思わず間抜けな声が漏れたのは仕方がないと言うものだろう。真夜中に突然電話をしてきて言う台詞ではない。だが、男の声に女は怯んだ様子一つ見せず、言葉を続けた。
『あなたの主観でいいの。どっちだと思う?』
まるでそれが当然の事であるかの様に淡々と語る女に、男も飲み込まれていく。暫く首を捻らせ考える素振りを見せていた男は、やがて長い溜息を吐くと、頭を掻きながら答えた。
「「死なないで」じゃないか?」
男の答えに、女は一瞬だけ沈黙する。だが、次に聞こえた声は、いつもと変わらないものだった。
「そう……」
何故、そう思うのか。女は男がそう答えた理由を聞かなかった。聞かないまま、夜遅くにごめんね、と一言だけ残し、通話を切った。
男もまた、深くは考えないまま受話器を置き、テレビを消すと、ゆっくりと覆い被さってくる睡魔に身を委ね、眠りに就いた。
何てことはない、ほんの少しだけ変な会話を交わした、ある日の深夜。
ただそれだけの筈だった。
それだけで、終わる筈だった。


あの夜から、五日後。
窓から差し込んでくる眩しい朝日に目を細めながらテレビをつけた男は、ブラウン管に映る写真に釘付けになった。
それは、海で女の溺死体が見つかったと言うニュースで、司法解剖の結果、自殺と認定された、とアナウンサーは冷静な口調で語っていた。
画面は、未だ死んだ女の写真を映している。どこか冷たい印象の顔。横に記された名前と年齢。
……それは、五日前の深夜、少し変わった電話をかけてきた女そのものだった。
慌てて男は思わず電話器へと駆け寄る。そこで初めて、留守録のランプが点灯している事に気が付いた。あれから仕事が忙しくなり、家に帰ると直ぐに寝てしまう生活を続けていたから、気が付かなかったのだ。
震える指で、再生ボタンを押す。
何件かの、直ぐに切れてしまう意味のない着信に混じって、それはあった。
恐ろしいほどに静かな、雑音の混じらない中で、いっそ爽やかなまでに澄んだ、明朗な、声。


『あなたは、「死なないで」ね』