ゆがみ、ゆらぎ



冷たい音が、頭の奥で鳴っている。どこかで聞いた、懐かしい音。
流れる血液の音よりかは苛立ちを覚える、奇妙なリズムを奏でる音。
波立つ水面(みなも)。泡立つ水面。透ける景色。
ゆがみ、ゆらぐ君の顔……。



どこから走ってきたのか。いつから走っているのか。そんな疑問は既に思考から一切取り払われている。
ただ、自分は走らなければならない。まるで、何かに追われるかの様に。……追われる? 何に?
分からない。だからこそ、走らなければならない。
息が上がり、声が枯れ、足はもつれ、一歩も前に進めなくなったとしても。
干からびた大地を走りながら、少女は次々に浮かび上がる雑念に頭を振った。
今は何も考えてはいけない。ただ、走らなければならない。
既に呼吸は荒いものになっており、足は固く張りつめている。
躰の一部一部が自分のものではなくなってしまった様だ。
頬を伝う汗は、雫となって顎から落ちる。それは乾いた地面に、ぽつりぽつりと染みを作った。
ふと、少女の足が今までにない程もつれ、疲労を張り付かせた表情のまま跪いた。
両手を地面につき、何度も何度も大きく呼吸をする。――もう走る事は出来ない。だが、それも良い。もう。
唐突に沸き上がった安堵は、深く少女を包み込む。
ゆるやかに訪れる闇に誘われ、目を閉じた少女はそこに、大きな水たまりを見つけた。
驚いて目を開いても、その水たまりは消えない。
それどころか、つい先刻まであった筈の干涸らびた大地が一切なくなっているのだ。
視界が届く範囲を越えて広がる闇。そして、眼前に浮かぶ水たまり。
水たまりに映る自分の顔が、自分を見つめている。
少女の荒い息が漸く収まってきた頃、その揺れる顔がぐにゃり、と歪んだ。
次の瞬間に映ったのは、幼い子供の姿。
子供は水たまりの中を歩いている。足を大きく振り、ばしゃばしゃと泥水をまき散らしながら笑っている。
不意に、子供の躰が揺らいだ。
笑顔を張り付かせたまま、水たまりの中に倒れ込む。泥水が顔と服を汚し、一際水が大きく跳ね上がる
ゆっくりと起きあがる子供の瞳に映るものに、少女は唇を僅かに開く


(―――――……これは、私?)


沸き上がったその思考は、一瞬にして少女を支配した。
――そうだ。これは、私。昔の私。まだ何も知らなかった頃の。
濡れる事や汚れる事なんてまるで気にしなかった頃の――………
あぁ、過去はどうしてこんなにも鮮明なのだろう……?


――これは、私、だ。


顔をゆっくりと水面に近づける。まるで祈る様な表情で瞳を閉じ、少女は唇を水面に付けた。
喉が上下して、水たまりの水を飲み込む。
何故かそれは、酷く冷たく感じた。
液体が喉を通り、腹の中へと落ちてゆく感覚に酔いしれていた少女は、頬にあたる冷たいものに気付いて顔を上げる。
瞳に映ったものは、忙しなく動く沢山の人々の姿。
足元にあるものは、土ではなく固いコンクリート。
周囲にそびえ立ついくつものビル………。


(――あぁ)


通り過ぎる誰かの肩が少女とぶつかる。だが言葉はそこにない。
降り注ぐ雨を見上げた少女の顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。


(私は、ここに、いる)


くるりと踵を返し、人波に逆らいながら少女は歩き出す。
しっかりと伸ばされたその背中を、コンクリートの溝に出来た小さな水たまりが見つめていた。



いつかの、幼子の笑みで。