指切り



どこか遠くで囃子が鳴っている。
木々の合間で揺れる韓紅は、松明の炎だろうか。何故か人の声はない。
囃子の音に手を引かれるように緑花石が敷き詰められた薄暗い道を歩いていると、道から少し離れた場所に女の姿が見えた。
透き通るほどに白い肌と水浅葱の着物がぽっかりと浮かび上がり、濡れ羽色の髪は闇の中に溶け込んでいる姿は、この世にあらぬ者のようだ。
腰掛けるのにちょうど良い形をした、山鳩色の石の上に座ったその女は、足下をじっと見つめている。目を凝らして見れば、石のすぐ下には一輪の月見草が咲いているのが分かった。
何故あんなにも熱心に見ているのだろう、という疑問が届いたのか、はたまた向ける視線があまりに不躾だったのか、不意に女がその面(おもて)を上げる。黒檀のような目がじぃ、とこちらを見つめた。桜色の唇を微塵も動かさず静止する女の顔は、息を呑むほどに美しい。だが、その目に見つめられたとたん、背筋を冷たい何かがざわり、と走った。
(おれはこの目を知っている)
静謐にして、艶めいた眼差し。確かに見覚えのある目だった。だが、どこで見たのかは思い出せない。
深い深い闇をそのまま塗りこめたような瞳に見つめられ、足が竦む。実際には数秒。だが厭に長く感じる沈黙の後、女がわずかにその目許を弛めた。同時に周囲の空気もすう、と和らぐ。
「何をなさっているのですか」
肌を撫ぜる冷気のような風が止んだことに安堵し、女に問いかけた。──そうしなければいけないような気がしたのだ。何故だかは分からないが。
距離を保ったままでの問いに、女は首を少し傾げて唇を薄く開く。
「人を待っております」
こんな時間、こんな場所でか。
女が一人でいるような場所ではない。今のところ自分と女以外他の人間は通っていないが、夜盗にとってみれば格好の仕事場所だ。
「どれぐらい待っているのですか」
待ち人が来るのがもっと後ならば、それまで側にいてやろう、と思いつつ尋ねたのだが、女の返事は少々可笑しなものだった。
「もう百年になります」
「……百年?」
「ええ、確かに百年です。ずっと、数えておりましたから」
何かの聴き間違いかと思ったが、再度そう言われてしまってはどうしようもない。女の顔にふざけている様子はなく、黒檀の瞳は相変らずじっとこちらを見つめている。
囃子の音を遠くに、互いの間に流れる沈黙が次第に深さを増していく。ここから去りたいと頭の奥では理性が叫んでいるのに、体は鉛でも飲み込まされたかのように重い。
いや、それどころか足は女へと近づいていた。ゆらり、のろり、そろり。
緑花石の道を外れ、夜霧で湿った土の上へと辿りつく。闇の中でも鮮やかな色を宿す月見草を見下ろし、はて、と首を傾げた。
前にもこんな光景を見た気がする。いつだったかも思い出せぬほど、遠い昔の日に。
「……あの日も、冷たい風が吹いておりました」
詠うように紡がれる女の声と同時に、冷たい風が肌を撫ぜた。汗と共に体の熱が奪い取られ、腹のあたりが寒気を覚える。
「川のせせらぎと、木の葉が揺れる音と……それから、遠くでは囃子が鳴っていました」
滔々と語りながら、女の手がこちらに伸びる。その細い指を見て、ぞっとした。小指だけが、根元からきれいに切り落とされている。
四本の指が袖を摘み、するりと下がってこちらの手を握った。その柔らかさとは裏腹に、氷のような冷たい体温にまたぞっとする。
遠くで聞こえる囃子の音が脳内へと入り込み、内側から鳴り響く。現実から剥離してゆく意識の中、静かに微笑む女の顔が網膜を刺激した。
「約束どおり、百年、待ちましたから」
女の声と、囃子の音と、冷たい風と、細い指と。すべてが混ざり合い、心臓をくるみ、柔らかに歯を立てる。既に自分が何ものなのか、ここがどこなのかも分からなくなってしまった脳に、詠うような女の声が鮮やかに響いた。
「今度こそ、ちゃんと殺して下さいませ」
(──ああ)
頬を一筋の雫が伝う。ああ、そうだ。目の前にいる女は、百年前おれが殺し損ねた女だ。──共に死のうとして、死に損ねた女だ。
百年前、薄暗い木陰の、山鳩色の石の側で確かにおれは目を閉じた。青白い女の顔と、夜露に濡れた月見草を最期に。
ゆるゆると、手が伸びる。ゆるゆると、細い女の首に。
女はひどく嬉しそうに笑うと、瞼を伏せた。冷たい肌に指を回し、少しずつ力を込めていく。手の甲に血管が浮きあがるほど力を込めても、睫毛が微かに動くだけで、女の顔は全く歪まない。肌の色もまた、透き通るような白さのまま、上下する胸の動きだけが緩慢になってゆく。
小指のない女の手が縋るように袂を掴んだ。腕を伝い肩へと辿りついた指が、ふるふると震えて頬に触れる。
刹那、世界が暗転し、意識が途絶えた。
崩れ落ちる重い体を細い女の体が受け止め、二人揃って岩の上に倒れこむ。深く目を閉じた顔は、まるでただ眠っているかのように穏やかだった。
どこか遠くで鳴り響く囃子の音は未だ止まず、木々の合間では、韓紅が揺れている。
冷たい風が吹く暗闇の中、一輪の月見草だけが、もう二度と起き上がることのない二人の姿を見つめていた。
やがて日が昇り、その白い花弁を萎ませるまで。





「語り部たちのメルヘン」の五つ目、「百年と六十五日」の原案を書いてみました。
文体を変えたのでちょっとは違う雰囲気になったかな……と。

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