その行き先は



例えば、理由もなく、この世の中で人が生きるとするのならば。
私たちは何を信じ、求め、そして何を滅しようとするのだろうか。


ディスプレイでは、爆発のスクリーンセイバーがくるくると回っていた。
一見忙しない光景をぼんやりと眺めながら、男は溜息を吐く。
毎日の様に、下らない時間が過ぎていく。いや、すべき事は恐らく無数にあるのだろう。
だがそれを見つけようとするだけの気力を持てずにいる。
訳の分からない焦燥感は、確かにあった。
いや、むしろあるのはそれぐらいと言っても良いだろう。
それは世の中が不景気だと騒ぎ立てるのを聞いて、ああそうなのだなと思う程度のものであったが、男をひっそりと蝕んでいた。
昨日の夜からやっと書き始めた卒業論文は、すでに空が薄明るくなっているのにも関わらず一頁も進んでいない。
選んだテーマが失敗だったと思うには遅すぎた。締め切りまで後一ヶ月しかない。テーマを変えるには時間がなさ過ぎる。
パソコンの隣にある勉強机の上に山積みにされた資料を横目に、男は小さく伸びをした。
視界の隅には、やはり山積みにされた新聞がある。かれこれ一週間分は溜まっているだろう。
いい加減読まなければいけないと思ってはいるが、いっこうに読む気が起きない。
読んでいて興味を引かれるニュースなどないし、暗い内容の記事は読みたくないからだ。
科学の記事は好きだ。それと文化。
新しい発見や、古いものへの触れ合い。そういったものはどれだけ読んでも飽きない。
政治も、経済も、本当は興味がない。
景気が悪いとか、そんなのは新聞を読まなくても身に染みて実感しているし、それ以外の情報は、テレビ番組で事足りる。
だからと言って、テレビのニュース番組が好きなわけでもないのだが。
流れるのは、目と耳を塞ぎたくなるようなものばかりだ。

毎日の様に、誰かが誰かを殺している。
毎日の様に、苦しんで死を選ぶ人がいる。
誰かが怒鳴っている。
誰かが泣いている。
誰かが誰かを糾弾している。

心臓が痛くなる光景は嫌いだった。他人の激しい感情は、自分の心をも揺さぶるから。
誰かを傷つけるのも、自分が傷つくのも、好きじゃない。
けれどその一方で、きっと自分は、何のてらいもなく人を殺すことも、
何のてらいもなく死ぬことも出来るのだろう、と何の根拠もなく信じていた。
そう考えることが、自分が自分でいられる唯一の方法のような気がしていた。

書いた文章を取りあえず保存すると、ウインドウを閉じる。
そのままパソコンの電源を切ると、椅子から立ち上がった。
机の隅に置いてある財布をポケットにねじ込みながら部屋を出る。
リビングでテレビを観ている母親に、近くのデパートに行くことを告げ、玄関の扉を開けた。
冬の始まりを告げるような冷たい風が顔へと吹き付ける。
ああ、もうこんなに季節は過ぎてしまったのか、とぼんやりと思いながら、エレベーターに乗り込む。
小さく機械音を唸らせながら下りていく箱の中で、とりとめもないことを考えながら、深い瞬きをした。

例えば、このエレベーターを吊っている線が、何らかの原因で今切れてしまったらどうなるのだろう。
自分の身体はどうなるだろうか。
重力と衝撃で見るも無惨な姿になるだろうか。
そんなことを考えているうちに、エレベーターは一階に到着したことを告げ、扉を自動的に開けた。
外へと出ると、男の頭の中から先ほどの危険な思考は取り払われ、どの店を見て回ろうか、という思考へと変わる。
これが、彼の日常だった。
非日常的な事を日常的に、電球のスイッチの様に素早く切り替えながら考えてゆく。
そのことを不思議に思ったことは一度もなかったし、自分以外の人間もさして変わらないだろうと男は思っていた。
心の中に闇を抱えない人間はいない。
それは、人を憎んだり愛したりしない人間がいないのと同じことだ。

デパートの中に入ると、直ぐに賑やかな音が耳に飛び込んでくる。
ずいぶんと気の早いクリスマスソングに、子ども達の声。
泣きわめくものや、何に興奮しているのか、つんざくような甲高い声が時折聞こえる。
落ち込んでいる時にはあまり聞きたくないものだ。嫌がおうにも心が荒んでいくのが分かる。
誰が悪いのでもない。もし何かが悪いとすれば、それはこの荒んだ心なのだろうが、
少し黙ってくれないかと心の中で呟くのは止められない。
ぶらぶらと、さして広いわけではない店内を歩く。
取り立てて見たいものは何もなかったが、書店をぐるりと一回りし、雑誌を二冊ほど流し読みすると、男はデパートを後にした。
自分とさして年が変わらないであろう女の子たちが、楽しそうに笑いながらすれ違う。
制服を着た高校生たちは、顔を寄せ合って何かを話している。
彼らはこの現実をどう捉えているのだろう。この現状をどんな風に見ているのだろう。
混沌とした、泥沼のような未来への恐怖を、どう振り払っているのだろう。
今、ああやって笑い合っている彼らの中にも、絶対にあるはずなのだ。心の奥底に棲む、言葉には出来ぬ不安が。
そういえば、ここ最近あまり笑っていないのに気づく。それどころか怒ることすらない。
その代わりにあるのは、自分は果たしてこの世に生きていて良いのだろうか、という不安だけだ。
不採用の通知が来る度に募る不安。
自分はこの社会で必要とされない生き物なのだろうか。自分は、生きている意味があるのだろうか。
……そしてそれは、自分さえいなければ、全てが上手くいくのではないか、と言う思考にまで発展する。
断片的に、発作のように、死にたいと思うことが増えた。
それは「思う」だけで、実行に移したことも、移しかけたこともなかったが、過去にないほどの頻繁さで、男の脳を占めていた。
不意に、頭の中にメロディが浮かぶ。確かラジオで聞いた曲だ。
歌っている歌手の名前も、歌の題名も覚えていないが、歌詞だけは何故かはっきりと覚えていた。


 揺りかごがあなたを愛した
 慈しみはあなたを見捨てた
 どこまでも遠く どこまでも近く
 翳りのない過去は 未来への道を塞ぐ

 お願い 名前を呼んで
 わたしが死なないために
 あなたを愛さないために

 お願い わたしを殺して
 あなたを殺さないために
 わたしが狂わないために


良い歌だ、と思った記憶はない。どうして耳に残っていたのかすら分からない曲だ。
けれどそれは、今自分の中にある思考と似ているような気がして、男は微苦笑を浮かべる。
迷いも曇りもない、真っ直ぐな人間になりたかった。全てを受け入れ、笑い飛ばすだけの肝っ玉を持ちたかった。
宮沢賢治の語る「デクノボー」になりたかった。
けれど、そのどれにもなれず、今の自分は惨めに卑しく、被害妄想だけで生きている。
思うことの、何と自由なことか。それを実現することの、何と難しいことか。
自分には、己を傷つける勇気すらないと言うのに。

憂鬱な足取りでアパートへと帰ると、郵便物が届いていた。
見る価値もないダイレクトメールに混じって、薄い少し大きめの封筒を見つける。
そこに書かれた文字に、男は思わずああ、と呟いた。
一ヶ月ほど前に受けた公務員試験の面接の結果通知だ。
マークシートの筆記から結果が出るのに一ヶ月。
そして面接を受け、さらに一ヶ月待つと言う、就職活動を継続している自分から見れば信じられないような日程の試験だったが、
待ち望んでいた通知だけに、心臓が少しだけ高鳴る。
家に戻り、届いたよ、と母親に告げると慌てて立ち上がり、部屋へと着いてきた。
母が毎日のように神棚に手を合わせていたのは知っている。
期待と不安がない交ぜになりながらも、ゆっくりと封を切り、中に入っている紙を取り出した。
名前と、受験番号などが書かれた欄の下に、数行の活字がある。
ゆっくりと目で追っていた男の目に飛び込んできたのは、あまりにも非常な三文字だった。

 「不合格」

無機質なその文字が目に飛び込んできた瞬間、体中が一瞬にして冷えていく感覚を覚える。
深い溜息と同時に項垂れれば、それだけで結果が分かったのだろう。母親も小さく残念そうに溜息を吐いた。
僅かな間を置いて、母親はすぐに気持ちを切り替えようと、良い方に捉えることをし始めた。
彼女の中にも絶望はあるだろう。だがそれを出そうとしない強さに、やはり母なのだと思いながらも、男の心は浮上しないままでいた。
悔しさだけがそこにあった。どうしようもない悔しさだけが、全てを占めていた。
拠り所だったのだ。次々と落ちていく民間企業の中で、ここが最後の拠り所だったのだ。
不採用の通知が来るたびに落ち込みながらも、でもまだここが残されている。
まだ結果が出ていない。それだけが、足を動かす原動力だった。
この時期に一ヶ月も待たされて、たった数行で切り捨てられた。
自分の人生を全て否定されたような気がした。
不意に涙が溢れた。悔しくて泣いたのは本当に久しぶりだ。
やるせなさに泣いたことはあっても、悔しくて泣いたことはなかった。
涙は止まらなかった。また振り出しに戻った、という気持ちと、もう数ヶ月しか残されていない、という焦燥感と、
何もかもがない交ぜになり、深い絶望となって胸の奥に落ちてくる。
次第に乾いてくる喉に苦しさを感じながら、男は思った。


ああ、もし明日、世界が滅びたなら。

この命が消えてしまったら。

どんなにか幸せなことだろう、と。