音の残像



つい先刻降り出した雨は、いつの間にか大きな連続音で地面を叩くものとなり、耳の粘膜を刺激していた。
暗い利休鼠色の空が淡い薄紫色に染まると、遠くに光の筋が地面へと突き刺さる。
どれぐらいぶりの雨だろうか。渇いた地面は天からの恵みに歓喜の声をあげている事だろう。
だが、文明などと言う代物を築き上げてしまった人間にとって、この夕立と呼ばれる雨は憎らしいものにも成り得る。
家の中にいる者や、都合良く傘を持っている者ならこれで涼しくなると喜ぶだろうし、
百貨店の傘売場の店員は傘が売れる事に対し雨に感謝の念を示すかも知れない。
しかし、傘を持たず外に出ている者にとって、この雨は厄介者以外の何に成り得ると言うのか。
何とかして濡れるのを防ごうと頭上に何かを掲げながら走る者や、建物の影に駆け込む者。
こんなにも文明は発達し、科学は進歩し続けていると言うのに、未だに人間は傘以外の雨を凌ぐ方法を知らない。
それなりの力を加えれば簡単に折れてしまいそうな金属棒と、鋏でも切ることが出来るであろう布だけで作られたそれ。
人はそんな物だけで、気の遠くなる程の長い間、降り注ぐ雨を凌いできたのだ。
それ以上の物を、作り出す事無く。





紺色の傘に雨粒が強く当たり、布を揺らす。
金属の先端から滴り落ちる水滴をぼんやりと眺めながら、男は人通りの少ない道を歩いていた。
そこら中に出来た水溜まりが、道路沿いに植えられた木の幹や葉を映し出している。
傘を差していても濡れてしまう勢いの雨の中、ゆっくりと歩いていた男の足がふと止まった。
視線の先には、アスファルトの地面に散らばる斑模様の桜色。
水溜まりに浮かぶ花びらが、風に揺られている。それはさながら、大海に浮かぶ小舟の様だ。
花びらを暫く見つめていた男は、視線をほんの少し遠くにずらし……そして、見つけた。
木を植え込む為に埋め込まれた土。太く逞しい幹の隣。 
雨に塗られて光る鈍い銀色の残骸。
……骨だけの、傘。
折れ曲がり、原型を留めていないそれを見た男の表情が大きく揺らぐ。
そう、それは見てはいけないものだ。見れば思い出してしまう。

あの言葉を。





「桜の木の下には、鬼が眠っているのよ」
どれぐらい前だろう。それ程昔でもなければ、最近でもないが、とにかく当時付き合っていた女がふとそう言ったのだ。
二人で桜の木の下を通り過ぎる時に。
派手な格好を好まない、すこぶる大和撫子な女を男は存外に気に入っていた。
それなりの交際だった。手を繋ぎ、抱き合い、口づけも交わした。
躰を重ねる事は結局なかったが、それでも付き合っていたのは確かだ。
「死体じゃなくて、か?」
思わずそう聞き返した男に、女は穏やかに笑い、こう言った。
「そうよ。その妖気で、近づいた人をおかしくさせるの」
ただのお伽噺だ。現実には決してあり得ない話。女の話を、男は軽く聞き流す事で返し、
女もまた、それを当然の様に受け止め、それ以来二度とその話はしなかった。

別れたのは、それから数週間後。
原因は未だに分からない。ただ、自然消滅のように、余りにも呆気なく別れたのだ。
別れてからそれ程経たない内に、自分には新しい彼女が出来た。
女もきっと別の男と付き合っているだろう。それだけ考えて、女の事は忘れた。

……忘れた筈だったのだ。





時折こうして、あの女の事を思い出す事がある。
その時にはいつも、視線の先に錆びた骨だけの傘があった。
雨を凌ぐものでありながら、その尤もたる要因である布を持たない物。
まるで意味を為さない存在を見る度に、男はあの女を思い出す。
桜の木の下には鬼が眠っていると、そう言って微笑んだ女の事を。
何故だかは分からない。けれども、男が思い出せる女の科白はそれだけしかないのだ。
それ以外にも沢山の話をした筈だった。過去の事も、未来の事さえも。
……けれど、何一つ思い出せない。あの言葉以外は、何一つ。

立ち止まった男の横を、人々が擦り抜けてゆく。
ある者は怪訝そうに、ある者は無関心に。
一際楽しそうなはしゃぎ声で、子供達が水溜まりを飛び越える。
傘と体をくるくる回しながら通り過ぎるその様に、だが男は気付いた様子もない。
そうして男が時間の感覚を失ってしまう程の時を経た頃、
視界に映る全てのものが色褪せ、世界は次第にモノクロへと近づいてゆく。
今鮮やかな色彩を宿すのは、一本の桜の木とその根元にある骨だけの傘のみだ。
そして、その向こうに微かに見える誰かの姿。


茫然と佇む男の側を、一際強い風が駆け抜ける。
その風の音が、まるで鬼の泣き声の様に聞こえたのは………。





 気の迷いか。

 それとも。

 心の病か。





 若しくはそのどちらでもないか。