梟月夜噺



それは、月の綺麗な夜だった。
あんまりにも綺麗なものだから、私は思わず月が喋り出すのではないか、等という
まるでお伽噺の様な事を考えていたのだ。
ぼんやりと月を見上げていると、私の耳に何者かの声が響く。
「おい、おい」
初め、私はそれが誰の声であるのか分からなかったが、
暫くして窓の外の樹に止まっている梟のものである事にようやく気が付いた。
さも驚いた様子の私に、梟は酷く嗄れた声で笑うと
「月の声とでも思ったか?」と言った。
その、まるで私の考えを見透かしたかの様な問いに、思わず息を呑んでしまう。
「そんなに怖い顔をするな。どうだ? 月の話の代わりに儂の話を聞かぬかね?」
笑い声と同じ嗄れた声で。
そう問いかける梟に私は、
僅かな困惑を胸に残しながらも、
ひとつ、頷いて見せた。




 ******************



こんな夢を見たのだ。
……え? 現実じゃないのかだと?
まあまあそう固い事を言うな。
儂は夜を旅する者。
見るのは誰かの儚い夢。

一人の男が雪道を歩いていた。
深い深い雪だ。表面が凍ってしまっている程の銀世界だ。
男は何かを追うかの様に、何かに追われるかの様に雪道を歩く。
男の足跡以外に、他の足跡はない。
何もない世界だ。
そこを男はひたすらに歩いていた。

……どれぐらい歩いたのだろうな。
分からぬ程の時間を経て、男は或るものを見つけた。
それは紅だ。
色彩のないこの世界に宿された、たった一つの色だ。
だが、男はその紅が何の紅か分からないでいた。
……当然だ。その紅は余りにも遠かった。
視界の遙か先に、ぽつりと、一点の紅があっただけなのだから。
だが男は歩いた。走った。
幾度も転びそうになりながら、幾度も深い雪に足を捕らわれながら、
それでも男はその紅へと向かい走った。
……そして男は、漸くその紅へと辿り着いたのだ。
さて、その紅は一体何だったと思う?
布? いいや、そんなものではない。そんな物では、あの紅は映し出せん。
では何かって? まあそう急くな。夜はまだ長い。
男はその紅の姿を見、息を呑んだ。それが驚きなのか……それとも他の感情からなのかは、
儂には到底分からなかったが、だが男がその紅に見とれたのは直ぐに分かった。
……曼珠沙華だよ。あの紅だ。
細い繊細な花びらが折り重なるあの花だ。
死と生とを繋ぐ境界線を埋め尽くすあの花だ。
あの花がたった一輪だけ、そこにあったのだ。
色褪せる事の無い、美しい紅を携えてな。
男は暫くその紅をじっと見つめていた。まるで何かを思い返すかの様に。
そして息を吐くと、その場にゆっくりと腰を下ろした。
曼珠沙華と、視界を同じにする為に。
男は微動だにせずに花を眺めていた。
ずっとずっと、眺めていた。
……どれぐらいの時間が過ぎただろうか。
男の手が動かなくなる程に冷たくなった頃だ。
花が……花が、揺れたのだ。
風など無いその空間で、ふわりと花は揺れた。
そして………。
花弁が一枚、雪の上へと舞い降りた。
それは一瞬の事。
本当に一瞬の事だった。
そして舞い降りた花弁は、さらりと、
風に砕け散る砂塵の様に、
雪の上から、姿を消した。
……だがそれでも、
曼珠沙華は咲き続けていた。
透き通る様な白と、鮮やかな紅は、
決して交じり合う事など無く、そこに在り続け、
現実には有り得ぬ光景をだが余りにも鮮明に映し出していたのだ。
何も変わった事はなかった。
ただ、雪の中に一輪の曼珠沙華があった。
その花弁が一枚、雪の中へと消えた。
ただそれだけの事なのだ。
……だが、男は突然、何かを思い出したかの様に立ち上がった。
声がした、と男は呟いたよ。誰にも聞こえぬ声で。
辺りを見回した後、男は最後に曼珠沙華へと視線を寄せた。
『声がした』今度ははっきりと聞き取れる声で男は呟いた。
そして、また以前と同じ様に歩き出したのだ。
追うかの様に、追われるかの様に。

それでも曼珠沙華は在り続けた。
男の背中が見えなくなっても、
男の足音が聞こえなくなっても、
紅はそこに在り続けた。
男が来る前と何ら変わらぬ形で。
ただ一つ違ったのは、一枚の花弁。
それが失せていただけ。
ただそれだけの差違。
……だが何故だろうな。
その差違がこんなにも大きく感じるのは。
まるで、運命の流れが一つ欠けてしまったかの様な、
酷い衝動を感じるのは。
その男はどうしているかって?
さあな、儂もそこまでは知らん。
だが、生きているだろう。
死んでいなければな。


……どうだ? お前の暇は潰せたか?
まあどちらでも良い。儂は話をした。お前はその話を聞いた。
それだけの事。
それだけの事だ。
礼などいらん。儂はただ話をしただけだ。
案ずるな。儂は夜を旅する者。
見るのは誰かの儚い夢。

……夢を、見たのだよ。
月が話した、ひとつの夢をな。




 ******************



語り終えると、梟は私の目の前から消えてしまった。
飛び立つ音も、その姿も見せないままに。
今し方私自身が目撃したその事実を、私が未だ飲み込めずにいる中、
ふと、私の聴覚に低い声が響いた。


梟の、鳴き声が。