* 緩やかで穏やかでそして残酷な未来の虚像 *





何も知らないままでいいのだ。
この世界で起きる総ての出来事は。
見ない振りをしたまま生きていけばいい。
そうすれば、自分は幸福だと信じていられる。
息絶えるその日まで。



仕事を終え、帰宅する会社員でごった返す駅のホームに、一匹の三毛猫がいた。
首輪はしていないものの、野良のわりには毛並みが良い。捨てられたのか、逃げ出して来たのか。
……それとも、駅に住み着いた野良猫か。
プラットホームの一番端に座り、微動だにしない猫に気づく者は少ない。
鳴き声の一つもあげる事無く、猫はただじっと電光掲示板の隣にある大きな時計を見つめていた。
その秒針が、動く様を。
ざわめきの中、ホームに無機質な電車の到着を告げるアナウンスが流れる。
車輪の回転する低い音が次第に近づいてゆくにつれ、
人々は漸く「家に帰る」という実感に、ほんの少しだけ胸を撫で下ろしていた。


だが。


まるで、それを見計らったかの様に、人々をかき分けて一人の男が駆け出す。
混乱を呼び覚ますその突然の情景に、猫はまるで弾かれたように走り出した。
男の後を追って。
ホームの白線を越え、迫り来る電車へと向け、男は躰を投げ出す。その後すらも、猫は追った。
鳴き声一つ、上げることなく。
電車の甲高いブレーキ音と、人々の悲鳴と、そして二つのものがぶつかり合う鈍い音が、駅構内に響き渡ったその時、
誰にも聞こえぬ程小さな音で刻まれていた秒針は、一九時きっかりの時が訪れた事を告げた。
誰一人、それを聞いていない事を知りながら。


翌日の新聞では、一人の会社員が起こした電車飛び込み自殺の記事が一面を飾り、
ニュース番組はトップニュースとしてそれを大々的に放送した。
誰もがこの時代の未来の不透明さを指摘し、世の中の不条理さを嘆く振りをした。
そして声高に、自由や平等を叫び、意味のない言葉を並べ立てる「専門家」達をもてはやした。


こうして、一人の男が存在した記憶は一時だけ人々の心に留められ、すぐに消えていった。
だが、人々は誰一人として知らなかった。男の躰の下にあった、一匹の猫の死体の存在に。
誰も、何もそれに触れなかったが故に、知ることが出来なかった。
男と共に命を引き取った、名前も分からぬ三毛猫の事を。
駅の隅で時計を見つめ、ホームへと入ってくる電車の前に飛び込んだ猫の事を。
その時、同じ駅のホームにいた人々でさえ、誰一人として気づくことはなかった。彼等は男の姿しか覚えていなかった。
誰にも知られぬまま、猫は死んだ。
誰もが知り得る事となった、男と共に。



何も知らなくても、何も気づかなくても。
未来はいずれ訪れる。
当たり前の様に、分かり切った表情で。
無知のまま生きていけばいい。
そうして生涯自惚れたままでいい。
人は、そうあるべく生まれてきた。
恐らくは。







もう一つの「猫」の話。