名付けられた者に



狂気の描き方を知っている?
条件は、私たちが「狂気」を知らない事。


何もする気が起きない程の、気だるい日常。
部屋の中に、世界中の憂鬱が存在しているかの様な。
ノイズにも似た細やかな音が、聴覚に響いてくる。
……外は、雨だ。

部屋の中には、男と女がいた。
女は寝転がり、男はその横に座っている。
女は、ゆるりと瞬きをし、寝転んだまま背伸びをする。
そして、大きく息をついた。
「何だったっけ……」
「何が?」
「あなたの名前」
既に諦めた様な口調で女は呟く。
酷く澄んだ声だ。都会の喧騒の中ですら、聞き分けられそうな程。
「……ああ…」
そして、低く響く男の声。男は、遠くを見る目つきをする。
その先にあるのは、意味のない虚空。
「何だったかな……」
男の答えに、女は小さく笑った。
「自分の名前でしょ?」
だが男は表情一つ動かさず、寝転がっている女の上に覆い被さる。
「じゃあ、君の名前は?」
抑揚のない無機質なその声に、女は再び笑う。
今度は、大きく。
「忘れちゃった」

雨は、まだ降り続いている様だ。
道路を走り抜けていく車の音が、やけにくぐもって聞こえる。
「どうして人には名前があるのかしら?」
女は起きる気配すら見せない。男の体重をその体で受け止めたまま、
少し押された肺から掠れた息を言語として紡ぎ出す。
「名前がなければ、愛する事も難しくないでしょう?」
そして男もまた、女の上から動く気配を見せない。
同じように……少なくとも女よりかは楽であろうが、その押された肺から、
温かい息を女の耳元へと吐き出しながら、ただ沈黙を守り通す。
「名前なんて、人間を区別する為の番号でしかないのに……」
女の声が途切れた時、男の呼吸が一瞬だけ止まる。
そして次の瞬間には、低い声が狭い部屋に響いていた。
「今度、生まれてくる時は……」
「…………」
「名前を持たない人間になろう……」
男の答えに、女はゆるゆると笑みを浮かべる。
薄紅の艶やかな唇が緩く曲線を描き、僅かな隙間から息が漏らされる。
「そうね……」
その声は、誰一人聞いた事がないほどの至高を帯びていた。

降り続く雨を凌ぐ術の一つとして人が生み出した「部屋」で、
男と女は決してありえない未来を語り合う。
それが真実であると、頑なに信じながら。
まるでそれしか知らない、幼子の様に。