かみさまのおはなし。



ひとつ、夢の話をしましょうか。
ここよりもう少しだけ、人々がかみさまに近い世界にいる、一人の幼い少年が見た夢の話です。
けやきの木が葉を揺らす小道の先に建つ、一軒の小さな家にその少年は住んでいました。
優しい両親と心豊かな街の人々に囲まれ、健やかな毎日を過ごしていた少年は、ある春の日に不思議な夢を見ました。
いつもは地面から見上げている空の上に、自分が立っているのです。足元はふわふわとした白いもので埋め尽くされていて、あたりは柔らかな光で満ち溢れていました。
お日様の下で干した布団よりも柔らかい感触に、少年はきっとこれは雲に違いないと思いました。だっていつも地面から見上げる雲は、こんな風にふわふわしていて、そして柔らかそうだったからです。
時折吹く微かな風を心地よく感じながらあたりをぐるりと見回した少年は、ふと首を傾げました。
雲の上には、自分を除いてだあれもいないのです。
こんなに心が温かくなれる場所なのに、どうして誰もいないのか不思議で、少年は歩き始めました。今立っているところから見えない場所なら、誰かいるかも知れない、と思ったからです。
何一つ、どんな些細なことも見落とさないよう気をつけながら雲の上をくまなく歩いていると、突然白い石でできた円形の足場が現れました。足場の中央には低い柱があり、その柱の上に透明のビー玉を大きくしたようなガラスの球体が置かれていました。それ以外は何もない光景に少しの不安を感じつつも、少年は足場の上へと上がり、自分の顔ほどもある球体を覗き込みました。
離れた場所からは透明にしか見えなかったのですが、そうやって見てみると、球体の中では様々な色が舞っているのが分かりました。きらきらと美しく輝いたかと思えば真っ暗になり、淡く綺麗な色がついたかと思えば暗い色が混ざりあった気味が悪いものへと変わり……。
そうやって、片時も留まることなく、次から次へと色が変わるさまをじっと見つめていると、少年はなんだか不思議な気持ちに襲われました。
胸の奥が締めつけられるように悲しくて、苦しくて。けれど優しさや幸せが体の底でひっそり息づいているような、そんな気持ちです。
言葉ではどうしたって表すことのできないその気持ちに促がされるようにして、少年は球体へと手を伸ばしました。
けれど。
「触ってはいけないよ」
指先が球体に触れる直前に、少年の背後から声が響いたのです。
驚いて後ろを振り向いた少年の目の前に立っていたのは、一人の男でした。深い藍色をしたぶかぶかの服を着たその男は、少年のお父さんよりも少し年を取っているように見えました。
「それに触ってはいけないよ。きみが壊れてしまうからね」
突然現れた自分以外の人間の姿に驚いて何も言えないでいる少年に、男は優しい微笑をたたえ、穏やかな声でそう言いました。
「こわれる?」
「そう。きみの体と……それから、「こころ」がね」
問い返す少年に男はやっぱり穏やかな声で答えると、少年の頭をそっと撫で、それから少年の手を握りました。大きな掌から伝わる温もりは、少年がいつも両親から感じているものととてもよく似ていて、それだけで少年の不安はするすると消えていきます。
「こちらにおいで」
男に促がされるまま球体の側を離れ、再び雲の上を歩いて辿りついたのは、同じように白い円形の足場がある空間でした。さっきの場所と違うのは、真ん中に柱も球体もなく、その代わりに足場の隅の方に椅子が一つ置かれていることでしょうか。
たった一つしかない椅子に座ることはせず、足場の中央に腰を下ろす男の姿に、少年は歩きながら考えていた問いを口に出しました。
「……あなたは、ここにひとりでいるの?」
あの足場からここに来るまでも、少年が一人で歩いていた時も、他に誰かがいる気配は全くありませんでした。吹く風は穏やかで、温かな光に満ち溢れていても、人や動物の声は何一つ聞こえませんでした。だからもしかしたら、この人はここに一人きりでいるのかも知れない、と思ったのです。
「そうだよ」
少年の問いかけに、男はゆっくりと首を縦に振ってそう答えました。
悲しみも寂しさも感じられない、優しくて柔らかな声色で。
けれどその答えを聞いた瞬間、少年の心はどうしようもない寂しさでいっぱいになりました。ここがどんなに素敵な場所だったとしても、一人きりだなんてあまりにも寂しすぎるからです。
「じゃあ、ぼくがいっしょにいるよ! ずっといっしょにいる。そうしたら、さみしくないでしょう?」
男の胸にすがりつくようにして叫んだ少年の言葉に、男は困ったような笑みを浮かべると、優しく少年の背中を撫でました。
「それはとても嬉しいけれど、無理なことなんだ。ここにはわたし一人しかいられないんだよ」
「どうして?」
「わたしが人ではないからさ」
確かに人の姿をしているのに、そんなことを言う男が不思議で、少年は思わず男の胸に耳をあてました。この場所に耳をあてると、とくとくという静かな音が聞こえることを──それが生きているあかしであることを知っていたからです。
さらさらとした感触の布越しからは、やっぱりとくとくという音が聞こえてきました。
規則正しく刻まれる心音は、少年の両親ものと同じはずでしたが、少年はどうしてか、少し違うように感じました。だって、両親のそれを聞いていて、嬉しくなることはあっても、こんな風に泣き出したくなることはなかったからです。
「きみは、夢の世界を旅している途中で、たまたまここに来てしまっただけなんだ。目が覚めればきみはきみの世界に帰る。きみの「こころ」はまだ羽の名残があるけれど、それでもきみは人だからね」
「……羽?」
「そう、羽だ。地面の雲のようなこれは、実は羽なんだよ。人が人になる前に持っていた……人になると同時に抜け落ちた、羽」
男の言っていることは、少年にはよく分かりませんでしたが、その声を聞いているうちに、少年は自分がだんだん眠くなってきていることに気づきました。
静かな、低い心音に促がされるように、少年の瞼が下りていきます。
「あなたは……「かみさま」、なの?」
それでも、なんとか意識を引き止めて最後の問いかけをすれば、男は少年の体を優しく抱きしめて、「どうだろうね」と言いました。もう瞼を開けられないほど眠くなってはいましたが、それでも少年は、男があの困ったような笑みを浮かべたことは分かりました。
薄れていく意識の中、まるで子守唄のように、男の声が少年の心に響きます。
「わたしには分からないんだ。わたしが本当に、きみたちがそう呼んでいるものなのか。
 ……なにしろわたしには、なんの力もないのだから。誰かを救う力も、裁く力も、なにも」
なにも。
堪えきれないかなしみを含んだ声を最後に、少年はすっかりと眠りの中へと落ちてしまいました。


瞼を刺激する光に促がされて目を開けると、そこは自分がいつも寝ているベッドの上でした。
カーテン越しに差し込む朝日をぼんやりと眺め、ついさっきまで見ていた夢を思い返し、少年はやっぱりあの人は「かみさま」なのだろう、と思いました。
男の言ったことがすべて本当だったとしても、それでも確かに「かみさま」なのだ、と。
体を起こし、ベッドから降りた少年は、自分の体が以前より少しだけ身軽になったような気がしましたが、それについて深く考えることはせず、窓際に駆け寄るとカーテンを空けて窓を開きました。
柔らかい春の陽射しが少年のいる部屋の中へと降り注ぎ、肌を照らします。澄んだ空の下、少しだけ強い風が吹き、小道の先に立つけやきの葉をそよそよと揺らす音が聞こえました。
それは、あの雲の上で聞いた、かみさまのやさしくてさみしい心音と、とてもよく似ていました。

ほんとうに、よく似ているのでした。




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