有機物と糸



一体、どれ程の時間が経ったと言うのだろう?
東から赤い日が昇り、それが西に沈み、また東から昇り、西に沈む。
その日の昇りを一つ、一つと勘定していたとして、果たしてどこまで覚えていられるのか。
百に到達した時、百合の花が現れる訳でもないと言うのに。
この部屋にあるのは、テニスボール大の白い糸玉と、その糸玉から伸びる長い長い糸のみ。
その糸は、ぐちゃぐちゃに絡まり、そして四畳ほどの部屋の床の色彩が伺えない程に散乱している。
この糸全てを解き、手繰り寄せ、糸玉へと巻き付ければその糸玉はどれ程の大きさになるだろうか。
部屋の中央に座る、白いワンピースを着た少女は、今現在それを試している最中であった。
ゆっくりと糸を解き、糸玉へと絡め取る。焦るでもなく、かと言って怠そうにでもなく。
だが、不思議な事に、幾ら糸を絡めようともその糸玉の大きさが変わる事はなかった。
そして、床に散らばる糸の量も、また変わる事はない。
その2つは、一時たりともその大きさや量を変化させる事なく、その部屋に存在しているのである。

ただ、そこに。

ある時、彼女は指を怪我した。
普段なら既製品で済ましてしまう筈の食事を、久しぶりに作った時だ。
長い間研がれていなかった包丁は苛立つほど切り難く、仕方なく包丁を研いだ所、逆にそれで指を傷付けてしまったのである。
その時、何故か糸玉はほんの少しだけ小さくなっていた。
それは本当に僅かな大きさであったが、気が遠くなるほどその糸玉を持ち続けていた彼女には、
その大きさの違いは異常な程に感じ取られたのだ。
そして、彼女の指の傷が治るとほぼ同時期に、糸玉もまた、元の大きさへと戻った。

けれど、他には何一つ起こる事もなく、
少女は糸玉の大きさの変化を、いつの間にか忘れてしまっていた。
勿論、自分が指を怪我をした事さえも。
そして、少女は何一つ以前と変わる事無く、糸玉に糸を絡め続けた。
幾たびの日の出と日没を繰り返し、幾たびの四季が繰り返される中、
少女だけは、何一つ変わらぬ姿で。
長さの変わることのない黒髪と、色褪せる事のない真白のワンピースで、
真白の糸を、真白の糸玉へと巻き取り続けていた。





青年は、赤い髪をしていた。人工的に染められた、鮮やかな赤。
彼は、友人と話しながら自分の通う大学へと向かって歩いていた。
「あのさあ、俺、昨日変な夢見たんだよ。
四畳ぐらいの部屋に、赤い糸がぐわーってあんのな。で、ちっさい糸玉が真ん中にあって、
俺はその糸玉に糸をずっと巻いていってんだよ。その、床にある糸を。
でもその糸玉は全然大きくならねぇし、床の糸もなくならねぇし、っていう夢」
青年の話を聞き終えた友人は、きょとんとした表情を浮かべながら青年の横顔を眺める。
「変だねぇ」
「そ、変だろ。しかもさ、夢ん中では俺はそれを疑問に思わねぇのよ。
それが当然だと思ってんだよな。で、ずーっと糸をぐるぐるぐるぐる巻いてんの」
訳が分からない、と肩を竦める青年に、友人は遠くを眺める様な目つきをする。
「もしかしたら、さ。それって、もう一人のお前じゃないかな」
「はあ? 気持ち悪ぃこと言うなよ」
「その糸は、命の糸でさ。もう一人のお前が、お前の命を絶やさないように糸を巻いてんじゃないのかな。
その糸玉が大きくなっても小さくなっても、床の糸の量が変わっても、絶対に駄目なんだよ」
「……つまり?」
訝しげに、けれど、明らかに話に引き込まれれている風な口調で青年は尋ねる。
「だから、そのどっちかが変わったら、お前の躰は健康じゃなくなるって事」
「あー……」
納得しきれていないのが明確な声だ。いや、信じていないと言った方が正しいか。
そんな青年の様子を見て、友人はくすりと笑った。
「ん? 何だ?」
眉を潜める青年に、友人はさも可笑しげな表情を見せる。
「だからさ、もし、その床の糸が無くなる時が来たら………」


「それは、お前が死ぬ時かもな」
その友人の言葉に、空々しさと、そして僅かな悪寒を感じながら、
己の胸に沸き上がる感情の意味を何一つ分からぬままで、
青年は、酷く不器用に微笑んで見せた。

「そうかもな……」