後生



全ての苦しみを目にして、それを何一つ救えないまま、生き続ける勇気はありますか?

林に埋もれるようにして、小さな美術館は建っていた。さほど有名ではないが、無名でもない芸術家達の作品が展示されているその美術館は、立地条件の悪さにしては意外なほど人が訪れることで知られている。
その理由は、展示ホールの片隅に置かれている少女の球体間接人形にあった。
誰が作ったのかも分からない、栗色の瞳と漆黒の髪をした人形。濃紺の着物を纏った彼女には、もう十数年前から怪談めいた噂が立っていた。
曰く、「この人形はその昔人間だった」。
三流ホラーのような噂は、だがまことしやかに囁かれ、多くの人がその人形を一目見ようと訪れている。
ガラスケースに収められた人形を彼らはじっと見つめ、あの噂は本当なのかも知れない、いや嘘なのかも知れないと堂々巡りを繰り返した後、無言で美術館を去っていく。しかし帰路の途中、彼らは唐突に、啓示を受けたかのように思うのだ。
ああ、あれはやはり、人間であったものなのだ、と。

土曜日の昼下がり、一人の男がその美術館を訪れていた。男の目的は、とある画家の作品を見る為であったが、そこに一部では有名な球体間接人形があることも、その人形にまつわる噂も耳にしていた。
ぐるりとさして広くない美術館を一周した後、男は噂の人形の方へと向かった。怪談話が好きな友人の土産話になるだろう、と思ったからだ。
出口に一番近い展示ホールの片隅に、それはあった。
小さな人形。座っている状態での高さは二〇センチほどだ。少女の柔らかな輪郭を見事に表現しながらも、人形の表情は驚くほどに憂いを帯びている。
思わず食い入るようにして人形を覗き込んでいた男は、ガラスケースに映る背後の人影に気づき、顔を上げた。振り向くと、腕章を付けた初老の男が微笑みを浮かべて立っている。恐らくここの職員だろう。
「気になりますか?」
「え?」
職員の質問の意味が分からず、聞き返す男に、職員は穏やかな笑みまま言葉を続けた。
「この人形の噂が、ですよ」
「あ…ああ、そうですね」
気にならない訳ではない。何しろ、誰が、いつ、どこで作ったのか全く分からない人形だ。それにそんな噂が付いていれば、誰だって興味を示すだろう。
「でもね、少し違う話もあるんです」
そう言いながら、職員は男の隣に立ち、ガラスケースの中を優しく見つめた。それはとても穏やかなもので、男は不思議な気分に陥る。
「……何ですか?」
男の問いに、職員は男の顔を見、そしてまた人形へと視線を戻すと、口を開いた。
「この人形が人間だったのではなく、人間の魂がこの人形に宿った、と言う説です」
「……?」
「昔、あることを神様に祈った青年の魂が宿っているのです。神様が青年の願いを叶えるために、そうしたと言うのです」
 まるで、見てきたことの様に職員は「異説」を語る。それが真実であるかのように、明朗に。
「……その祈りって、何なんですか?」
初めて聞くその説に心を動かされた男は、職員に思わずそう尋ねていた。職員はそれを予測していたのか、小さく笑みを浮かべる。
「『この世の行く末を見たい』」
「……え?」
小さく漏れた声に反応してか、職員は再び笑みを浮かべた。
「この世界がどんな結末を迎えるのか。どの様に滅びていくのか。自分はそれを見届けたい、と願ったんです。神様はそれを受け入れた。だから、青年の魂を決して滅びないものに宿させた」
「滅びない……?」
「この人形にその魂がいつまでいるのかは私にも分かりません。ですが、もしこの人形が何らかの形で壊され、この世から無くなってしまったとしても、魂はまた別の人形に宿ります。そうして、魂だけは生き続けて行きます。この世が滅び、全てのものが無くなってしまうその日までは」
「……けれど、ここにいるだけじゃ、世の中なんて見られないんじゃあ……」
閉ざされた空間で、ガラスケースにしまわれた人形。そこに魂を移されたとしても、一体何が見られるというのだろう。
男の問いに、職員はゆっくりと首を振る。穏やかな眼差しを、ずっと人形に注いだまま。
「そんなことはないですよ。魂は人の心を見ることが出来ますから。ここに訪れる人達が見てきた「歴史」を見ることが出来るのです。そして、人形の周囲にある全ての美術品は、それが生み出された国と繋がっているのです。そこから今どこで何が起きているのかを全て見ることが出来ます。どこで人が生まれ、どこで人が死んでいくのか。その全てを、魂だけが見られるのです」
「そんなこと……本当にあるんですか?」
恐る恐る尋ねる男に、職員はやっと顔を上げ、男の顔を見つめる。強張った男の表情を和らげるかの様に目を細めて笑うと、今までの口調よりは幾分明るい口調でどうでしょうね、と言った。
「ただの「噂」ですよ。……それが本当かどうかは、誰にも分かりません。魂を生きている人間が見ることは出来ませんからね」
そう言い終えると、職員は会釈をし、去っていった。自分より幾分小さい背中をぼんやりと眺めながら、男は職員の話を頭の中で反芻する。そして、それはやはりただの「噂」なのだろう、と自分の中で結論づけると、早足で展示場を後にした。
美術館の出口のすぐ傍にあるバス停で、駅と美術館を巡回しているバスを待ち、数分でやってきたバスに乗り込む。流れる景色をぼんやりと眺めていた男は、いつの間にか職員の言葉をもう一度頭の中で繰り返していた。
そんな中、木ばかりの景色の中に、不意に黄色い屋根の家が見えたような気がして、男は意識を現実へと引き戻す。急いで振り向くが、通り過ぎた景色には生い茂った木しかない。
きっと気のせいだろう、と思い正面へと向き直った男は、唐突に、まるで啓示を受けたかのように気が付いた。

あの職員の話は本当だ。
あの人形には、確かに青年の魂が棲んでいるのだ。

理由は何一つない。証明できるものもない。だが、確かにそれが真実なのだと、男の全身が叫んでいた。背筋が冷たくなり、指先が小刻みに震える。
この世の行く末を見たいと願い、青年は死んだ。この世に深く絶望しながら。そして、絶望したからこそ、この世が如何にして滅んでいくのかを見たいと。
そして神は、それを受け入れた。それが如何に苦痛で空しいものかを知っていたから。
気の遠くなるような時間を、魂は生きるのだ。人間の醜さと美しさを傍観しながら。他の人々の魂の叫びを耳にしながら。
……そして、それに何一つ関われぬ自分を嘆きながら。

この世が滅びる、その時まで。