そこにはいないけれど



例えば、この、名声の欠片すらない私が、
どこかの壇上で声高に何かを叫んだとしても、
その行為に果たしてどれほどの「意味」があるのだろうか。
そんな事を、ふと考えたりする。

何かに縋り付いて生きてゆく、この一生の中の一瞬に。




男は短く息を吐いた。
それは彼にとってある程度の諦めを示すものであり、
また同時に僅かながらの蔑みを含むものでもある。
しかし、「彼」はそれに気付く事はなかった。
もし「彼」が男を見ようとしたならば、男の短い呼吸に含まれたその感情に気付いただろう。
だが、「彼」にとって男は全く持って理解しがたい存在であり、見ようとする意識すら、「彼」の中には生まれ得なかったのだ。
「……下らないな」
男の口から、短い声が漏れる。
低くもなくかといって高くもない、声。
言葉として発せられた男の感情に、「彼」は漸く顔を顰めてみせる。
「君はいつもそうやって逃げている。僕達は目の前の現実を見つめなければいけないんだ!」
そう喚きながら、「彼」はテレビ画面を指さした。
ブラウン管に映るのはニュース番組で、最近あった無差別連続殺人事件の犯人の報道がされている最中だ。
逮捕されたのは一昨日であるが、世間は未だにその事件に熱中している。
様々な番組でその事件と犯人の生い立ちが報道され、ブラウン管に映る誰もが声高に何かを叫んでいる。
しかし、人々が最も熱狂したのは、犯人の「動機」であった。
……いや、正確に言えば動機はなかったのである。
犯人はまるで、挨拶をするかの様に殺人を犯し、またその己の行動をそう認識していた。
その思想こそが、人々にとって最も意外であり、また興味を引いたものであったのだ。
「こんな人間が存在して君は許されると思っているのか!?」
どこかの大学の心理学を教えている教授が何かを話し始めたのとほぼ同時に、「彼」は声を荒げる。
何故そこまで大声で捲し立てなければならないのか、男には分からない。
それ程までに無駄な体力の使い道があるだろうか?
どうせ大声をだすのなら、護身術でも習えばいいのだ。そうすれば大声を出すことが浪費ではなくなる。
そんな事を考えながら、それでも男は「彼」の言葉を黙って聞いていた。
もし聞いていなければ、「彼」に更なる浪費をさせる事が分かっていたからだ。
何も言い返さない事に腹を立てたのか、それともよしと思ったのか、「彼」は言葉を続ける。
「理由もなしに、しかも面識のない罪のない人を殺す事が許される訳がないだろう!
 奴は重い罰を受けるべきだ。そうしなければ誰も納得しない。
 第一、人を殺す行為なんてものを許してはいけないんだ。この国は甘すぎるんだよ!!」
顔を真っ赤にして怒鳴り続ける「彼」を、男は表情一つ変えずに見つめる。
荒い呼吸を何度か繰り返す「彼」を冷ややかに見つめ、男は漸く口を開いた。
「…ならば」
「何だよ」
「それならばお前は、どういう理由があれば人を殺すんだ?」
「……………は?」
鳩が豆鉄砲をくらった様な表情をする「彼」を後目に男は続ける。
「理由のない事を責めるのなら、理由を作ればいいだろう。実際、世間は理由を作ろうと躍起になっている。
 面識がない事を責めるのなら、面識があった事にすればいい。
 昨日すれ違った。満員電車でぶつかった。「知っている」なら幾らでも可能性はある。
 第一、殺された人々に本当に罪が無かったと言えるのか?」
「………君はっ! 君はそんな事を言うのかっ!?」
酷く冷静な、淡々とした男の口調とは正反対の荒々しい声で「彼」は怒鳴る。
既に自分の思考回路を認識出来ていないだろう。頭から湯気が昇る、とはまさしくこの事か。
……本当に湯気が昇るのなら薬缶でも置けるのにな。
冗談なのか良く分からない事を男は頭の中で一瞬考えた。
だが、余りにものくだらなさにその思考を自ら打ち消す。
「何故、理解しようとする?」
言葉を紡ごうとして、だが紡ごうとする言葉が思いつかず、
空気を求める魚の様に口をぱくぱくさせる「彼」に、男はゆっくりと尋ねた。
「……………?」
「お前は、あの事件には何一つ関わっていない筈だろう? 報道されて初めて知った事だ。
 それのなに何故、わざわざ総てを理解しようとする。俺にはその方が理解できん」
一度開かれた男の口は、なかなか閉じようとはしない。
その事に男自身が腹を立てる。これも無駄な浪費だ。こんな事をした所で、変わるものなどなにもない。
だが、そんな男の意志に言葉は覆い被さる。
思考を隠し、ただそこに意味のない単語の羅列を作り出す。
「そんなにも理由を求めるのならば、何故「犯罪はいけない」と言う前提がつく。
 犯罪が赦されざる行為ならば、そこに理由など付加させる必要性はない。
 犯罪は犯罪だ。それが如何なる下に行われようがそのものに変わりはない。
 ……理由があって安心するのは、世間だけだよ。お前も含めてな。
 そうやって必死に否定するんだ。『自分達はあいつとは違う』ってな」
「………君は……」
「見て見ろよ」
唇をわなわなと震わせている「彼」の顔は見ないまま、男はTV画面を顎で示す。
犯人が事情聴取を受けている警察署の前の映像だ。キャスターが何かを話している。
その後ろでは、大勢の若者達が我こそはカメラに写ろうと、ひしめき合っていた。
ピースサインをしてみたり、変な顔や格好をしてみたり、飛び跳ねてみたり。
時折誰かの体がキャスターに当たる。騒ぎ声にかき消されそうになる声を、キャスターは必死に伝えている。
「俺なんかより、あいつ等を怒る方が先なんじゃないのか?」
「………………」
「言っておくがな、俺は亡くなった人々の命を軽んじている訳じゃない。
 殺人に理由付けをしようとするその心理が分からないだけだ。
 そこに縋りついてそうする事で理解しようと試みる奴等の精神が理解できないだけだ。
 どうして人を殺す事に理由がいる。それならばお前は、しかるべき理由があれば自分は殺されていいと言えるのか?」
「それはっ!………」
息を詰まらせた、甲高い「彼」の声に、男は唇の端だけを上げて笑って見せた。
「言えないだろう? 当然だ。死にたくないからな。何も要らないんだよ。
 理由が菓子を取られた事であろうが、妻を強姦された事であろうが、殺人は殺人だ。何も変わりはしない」
TV画面は、別の映像を映しだしていた。
被害者の家族や親戚や、学校の友人やらを追い回し、涙に濡れた顔と掠れた声を映し出している。
一般的な慰めと弔いの言葉を向けながらも、結局は彼らの心の中に土足で上がり込むその行為。
「本当に裁かれるべき存在ってのを、俺たちはいつの間にか間違えているんだよ」
「………君は…」
「俺も、決められた規則に従っているだけだ。生きていく為にな」
「…………」
「だから誰も殺さない。……ま、幸いな事にまだ殺したい相手ってのはいないが…」
「……………」
「なあ、思わないか?」
気圧されしてか、呆れてか。ともかく何も返事を返さない「彼」の様子すら伺わず、男は小さく項垂れる。
その口から漏れたのは、言葉には出来ぬ程危うく物憂げな微苦笑。
「誰かを殺したい程憎んだ事がある奴に、それぐらい傷つけられた事がある奴に、
 『人を殺すのは道徳として良くないのよ』なんて言葉をかける程残酷な事は無い………」
僅かに骨張った手が、髪を乱雑に掻き回す。
跳ねたり絡まったりして、不格好なった髪型を直す事もせず、男は天井を見上げた。
「傷の深さなんて、本人にしか分からないものなんだよ………」
いつの間か、ブラウン管に映る映像はスタジオに戻っていた。
未だ熱の冷めぬ口調で司会者が何かをがなり立て、だれもがそれに頷く。
素晴らしい正論だ。素晴らしく道徳的な意見だ。
だが、それは果てしなく馬鹿馬鹿しい絵空事だ。
言葉にするのなら誰にでも出来る。誰にでも。
いまああやって正論を並べ立てている奴は、本当に誰も傷つけてないと言い切れるのだろうか?
殺意を抱かせた人間がいないと言い切れるのだろうか?
「………なあ」
男の口から、声が漏れる。
それが今にも泣き出しそうに聞こえたのは、気のせいだったのか。
「お前はどういう理由があれば、人を殺すんだ…………?」



言葉の消えてしまった部屋で、意味を持たないTVからの音だけが響いている。


下らないニュースは、当分終わりそうもない。