君だけに告げる。



私が「彼女」に出逢ったのは、とある企業の就職説明会だった。たまたま隣りに座った私に、彼女の方から声をかけてきたのだ。
それから時々、私たちはいくつかの説明会で顔を合わせた。初めて出逢ったのが4年生の2月だったことと、
希望していた職種が同じだったこともあって、それを不思議に感じたことはなかった。
都内で開催される説明会も以前から見れば少ない。時には3年生と同じ会場で説明を受けることもある。
彼女は自分のことを「僕」といっていた。薄い化粧。染められていないベリーショートの短い髪。
髪と同じ真っ黒の大きな目をした彼女にはなぜか、その呼称がよく似合っていた。
喋り方にも少し特徴があった。といっても、それは自分と話しているときだけだ。
集団面接で時折聞いた彼女の声は、いたって普通の、面接を受ける「学生」の声だった。
あれはいつだったろう。3月の終わりだ。もうすぐ卒業式、という時に行った、新聞に載っていた求人の面接。
受付で名前を告げ、待機室に通されたとき、部屋の中に彼女の姿を見つけた。
「久しぶり。偶然だね」
「うん、そうだね」
誰もが少し緊張した、けれど所在なさげな面持ちで座っている中、小さく微笑みながらそう会話を交わす。
結局、そのとき交わした会話はそれだけだった。後はお互いに、渡された資料を読んで面接の時間を待った。
面接は4人の集団面接だった。先に彼女の名前が呼ばれ、10分ほどして自分の名前は次のグループで呼ばれた。
全部で30分ほどの、ありきたりな、ひどく無難な面接。選考はそれだけだった。
歩道の隅でコートを身に着けながら、求人欄の内容を思い出し、面接の内容を思い出し、無理かな、と口の中でごちた。
ふと、顔を上げると二軒ほど離れたところにあるコンビニから、彼女が出てくるのが見えた。
あ、と思った感情が伝わったのだろうか。彼女がこちらを見て、にっこりと微笑んだ。
普段の表情はあまり明るいとはいえないが、笑うと夏の日差しの下の向日葵のように明るくなる。
こうして、時折偶然顔をあわせる度に言葉を交わすのは、そのギャップに惹かれたからかも知れない。
「終わったの?」
「うん。あ、コーヒーでも飲んでく?」
「いいよ」
なんとはなしに呼びかけた誘いに、笑顔で頷く。そういえば、彼女は紅茶派というよりコーヒー派だった。
ブレンドにミルクだけを入れて飲むのが好きなのだ、といっていたのを思い出す。
缶は口の中に残る感じが嫌だから飲まない。甘いコーヒーも、外で時折飲む以外滅多に飲まない。
以前、どこかの喫茶店で聞いた話が頭のなかでぽんぽんと蘇ってくる。
彼女なら、どこにでも決まりそうなのに。
50社近く受けたと聞いていた。けれどまだ、どこからも内定は貰っていないとも。
選んだ職種なのか、それとも自宅から勤務地までの距離か、それとも他の何かが原因か。
立ち寄ったチェーン店の喫茶店で、彼女はやはりブレンドコーヒーを頼んだ。私はミルクティーを頼む。
すぐに出されてきたそれを手に、二階の禁煙スペースに向かった。
外が見下ろせるガラス張りの壁際にあるテーブルに座る。
お互いに頼んだものを飲みながら、近状と今日の面接について少し話した。
会話が途切れ、沈黙が流れる。しばらく外を見下ろしてから彼女のほうを見ると、カップを持ったままぼんやりと下を向いていた。
「どうしたの?」
その瞳があまりに空ろで、ふいに心がざわ、と不安を訴えた。
私の問いかけに、彼女は顔をあげ、微苦笑を浮かべると、しばらく逡巡したのち、口を開いた。
「あのね、僕はここが駄目だったらもう死んでしまおうと思っているんだ」
さらりと告げられた言葉に、顔が強張るのが分かる。それを気にした様子もなく、彼女は言葉を続けた。
「遺言とか残す気はないんだけどね。凄い文章が書ければ、残したいけど……無理だよね、小説家でも、詩人でもないんだもの。
 ほんとは、『悠々たる哉天壊、遼々たる哉古今…』みたいな文を刻みたいけどさ」
「『厳頭之感』のこと?」
聞き覚えのある言葉に記憶から引きずり出した名を告げると、彼女は嬉しそうに笑った。
秘密を共有する仲間を見つけたような、そんな笑みだ。
「そう。知ってるんだ」
「うん。中学の時、修学旅行で行ったから」
もう一度そう、と答えると、彼女は肩肘をテーブルの上につき、手を頬にあててやはり宙をぼんやりと見つめる。
視線の先に自分がいないことが、その声がどこに向かって紡がれているのかが分からず、わけも分からず不安になった。
「……でも、伝言ぐらいは残せたらなあ、って思う」
「伝言?」
「そう。訴えるんじゃなくて、言付けるだけの言葉」
その違いは、私にはよく分からなかった。その代わりに口をついて出たのは、あまりにもありきたりな言葉。
「あなたが死んだら、悲しむ人がいるんじゃない?」
「僕ひとりが死んだって世の中は変わらないよ」
そう言って、彼女はまた笑った。その瞳の中にかすかな本気を見つけ、自分の体が竦むのを感じる。
「本当はね、いつだって思ってるよ。今、この瞬間に死ねたらいいのに。
 ……そうしたら、もう何にも苦しまなくてすむのに、って」
うわ言のように、独り言のように。
けれど言葉の隅に、それがただの冗談や言葉遊びでないことを潜ませている。
それを感じ取れる自分は何なのだろう。
どこの大学に行っているのかも知らない。下の名前も知らない。それなのに時折こうして、面接で顔をあわせては、
その後に喫茶店に寄って、200円以下のコーヒーを飲み、他愛ない会話を15分ほど交わす。
それだけの仲なのに、どうしてこの言葉をただの冗談だと受け止められないのだろう。
私の堂々巡りをどう取ったのか、彼女は残りのコーヒーを飲み干すと、帰ろうか、と私に告げた。
このまま彼女と顔を見合わせているのはあまりにも居心地が悪く、私もそれに応じる。
駅までは一緒に歩き、そこで別れた。彼女が向かって行ったのは、自分とは全く違う方面に行く路線のホームだ。
頭の中で、先ほど彼女がぼんやりと呟いた言葉がよみがえる。
『死んでしまおうと思っているんだ』
きっと冗談だ。もし考えていても、本気で行動に起こしたりなんかしない。
そう自分に言い聞かせ、私はやってきた電車に乗り込んだ。


結局、面接時に告げられた日までに連絡は来なかった。
心のどこかで予測し、覚悟していたとはいえ、やはり軽い絶望が体全体を襲う。
もう慣れた感覚だった。けれど、できることなら慣れたくない感覚でもあった。
次を考えないと。そう思うと頭痛がし、胸が締め付けられた。胃と心臓が痛かった。
けれどやはり前に進むしかないのだ。そう自分に言い聞かせ、ついこの前から始めた資格の勉強に取り掛かった。

その報道を聞いたのは、翌朝だった。
テレビをつけ、チャンネルを回しているとどこかで見たことのある顔が一瞬視界に入った
あれ、と思いもう一度チャンネルを回すと、「彼女」の写真がブラウン管に映っていた。
どうしてだろう、と思うと同時に、ニュースを読み上げるアナウンサーの言葉がどっと脳に飛び込んでくる。
今日未明、郊外の林の中で発見された首吊りの遺体。
足元には遺書があり、自殺と認定。
大学四年。いまだ就職活動を続けており、それを苦にしての自殺と………。
写真の下に出されたテロップで、初めてフルネームを知った。さして珍しくはない、よく耳にする名前だった。
『死んでしまおうと思っているんだ』
あの言葉は本当だったのだ。自分が一瞬感じた「本気」は、本当だったのだ。
足元から体全体が凍っていく感覚を覚え、締め付けられる心臓の痛みに、私はきつく目を閉じた。
ニュースで話題にされていたのは、彼女が死んだ原因と、その遺書だった。
最近は就職難を苦に自殺をする大学生が増えている、という統計のグラフが示され、それから彼女の遺書が淡々と読み上げられる。
死ぬことに至った簡単な経緯と、侘びの言葉。そしてその後に続けられていた言葉に、私の脳が激痛を訴えた。

『僕が死ぬことを知っていた人は一人だけいる。
 けれど、僕が死ぬと思っていた人は一人もいない。』

ああ、そうだ。
私は彼女が死ぬことを知っていた。けれど思ってはいなかった。
その「一人」は私のことだ。家族でも、大学の友人でもない、私のことだ。
強張った指先が震えを伝え、絶望と悲痛が体中を駆け巡る。
もしあの時、自分がもっと真剣に話を聞いていれば止められただろうか。
いや、無理だろう。きっとあの話をした時点で、彼女は答えを出していたのだ。
それを実行に移した。それだけなのだ。

死にたかったんだ。
堪えようのない苦痛と強迫観念に苛まれ、それでも人前では気丈に振る舞い、笑い。
そうすることしかできない自分がひどく嫌だったのだ。
だから死んだ。自らその命を絶つことを決めた。
けれどならば、どうしてそれを私に漏らした? それほど会ったことも、話したこともない、私に。

……ああ、そうか。
同じだったんだ。同じものを、私に見ていたんだ。
自己嫌悪と堂々巡りの思考を繰り返しては、生きていこうとする姿を。
私もそうだった。同じ何かを感じていた。だから彼女の言葉に答え、また話していたのだ。
本当は気づいていた。けれど気づかないようにしていた。
見てしまえば取り返しがつかなくなると分かっていたから。見てしまえば、堕ちてしまうと分かっていたから。
自分で自分の命を断つことを、自分で自分を肉体的に傷つけることを、理解できないふりをしていた。
けれど先に彼女はその均衡を破った。心が破裂したから? 分からない。それは分からない。
私はこれからどうすればいい? どうすれば…………………。
分かってる。本当は分かってる。これから自分が何をするのかなんて、ちゃんと分かってる。
ただ信じられないだけだ。彼女が『死ぬ』ことを信じなかったのと同じで。
自分が信じられないだけだ。
………それだけの話だ。



翌日。テレビでは一人の女子大生の一酸化炭素による自殺のニュースを熱っぽい口調で伝えていた。
先日首を吊って死んだ女性と同じ理由での「自殺」。
知識人を名乗る人々は物知り顔でこの世を憂い、同時に死を選んだ彼女達を叱咤した。
それが、今生きている者の、その地位にいる者の「詭弁」だと言う者は誰もいなかった。
だが何より人々を驚かせ、興味を引かせたのは、枕元に置かれていた遺書にあった。
真っ白い紙にボールペンでゆっくりと、時間をかけ、丁寧な字でかかれたそれ。
死ぬことに至った簡単な経緯と、侘びの言葉。そして、その後に続けられた、二行の短い文章。



『私が死ぬことを知っていた人は一人もいない
 けれど、私が死ぬと思っていた人は一人だけいる。』