白い猫



真夜中の道路を走っていた車が、急ブレーキで止まった理由は、
100メートルぐらい前に真っ白な子猫が座っていたからだと。
そんな可愛らしい話を聞いたのは、ほんの数ヶ月まえの事だった。


残暑は秋の半ばまで続いていた。各テレビ局はこぞって環境問題を採り上げ、
オゾン層が、二酸化炭素が、地球温暖化が、と騒ぎ立ていたのはついこの間までの話だ。
今は流石に暑さも和らぎ、街を行く人々の服装も長袖に変わりつつある。
それでも尚照りつける太陽から逃れるかの様に、章(あきら)は小陰に佇んでいた。
長袖に、鍔の広い帽子。一見かなり怪しい光景ではあるが、それには理由がある。
生まれつき肌の弱い彼は、強い日差しの下にいると一時間と経たない内に肌が真っ赤になってしまうのである。
だから、彼は不快感しか呼び起こさない夏の最中でも、長袖に長ズボンと言う出で立ちだった。
海水浴なんていうものは、彼にとっては恐らく刑罰みたいなものでしかないのだろう。
だからと言って、彼が運動を全くしないと言う訳ではなく。
室内で出来る運動はそれなりに嗜んでいたし、彼自身も体を動かす事は嫌いではなかった。
しかし、露出されない彼の肌は透き通る様に白く、
それだけで彼がさも貧弱であるかの様に思えてしまうのも致し方ないだろう。
そして、章の横には、彼とは対照的に肌を小麦色の焼いた男が立っていた。
数ヶ月前に始めた深夜のコンビニのバイトで、コンビを組んでいる男だ。
「隆、お前今日彼女と会うんじゃなかったのか?」
自分の腕時計を見ながら、章は隆へと話しかける。
「あ? ああ、あれ止め、もう止め。あいつには付き合ってらんねぇよ」
苦々しげにそう隆は吐き捨てる。どうやら、余程酷い扱いを受けたらしい。
ま、仕方ねえよ。あいつお嬢様だもんな。そう小さく愚痴てから、隆は章の方を向いた。
「しっかしお前も大変だよなー。まだそんな格好しなきゃなんねぇの?」
「冬がくればみんな同じになるからいいんだけどね」
仕方がない、と肩を竦める章に、隆もそうだな、と言って笑う。
「そうだよなー。でも夏がないのは俺に取っては地獄だしー。日本ってのはよく出来た国だなー」
とぼけた様なその口調に、章は可笑しそうに笑った。
「あ、そう言えばさ、この前ドライブしてた時、道路に野良犬が座ってたんだよ」
どうやら本当に彼女と会う気はないらしい。近くにある銀行の大きな時計には目もくれず、隆は話しを続けた。
「そん時、たまたま俺の車ぐらいしかなくってさ、止まったんだけどなかなか動かないで。
しょうがねぇからクラクション鳴らしてどかしたんだけど……。轢かれるってのは分かってると思うのにな」
どうしてなんだろうな、とぼやく隆の耳に、章の声が響く。
「そうなっちゃうんだよ」
「……へ?」
「俺もよく分からないんだけど、猫とか動物ってのは、車がくると立ち止まってずっとそっちを見るんだってさ。
このまま自分が動かなければ轢かれる事は分かっていても、何故かそうしてしまうんだって、何かで読んだことがある」
「へー……。足が竦んじゃう、ってやつ?」
「さあ……」
「そっかー……何か、可哀想だな」
何気なく漏らされた言葉に、章はだが勢いよく顔を上げる。
-----驚いた様に。
「どうした?」
その動作に驚いた隆が、訝しげに章へと尋ねる。
「いや、何でもない。……それより」
「ん?」
「雨、降りそうだ」
「えーっ、マジ!?」
章の科白に、隆は大きな声と共に空を見上げる。空は雲があるものの、綺麗な青空を映している。
「あーもう、折角天気良いのにー。でもお前の雨予報当たるもんなー」
何故だかは分からないが、章は雨の予報が得意だった。晴れ晴れとした太陽の下出かけようとする
隆に、降り畳みの傘を勧める時は必ずといっていい程に夕立やにわか雨が降るのだ。
そのお陰で、隆は何度も濡れ鼠になるのを免れていたのである。
「そっかー。取りあえずどっか入るか? この近くにコンビニあるしさ」
「……そうだな」
小陰から出、二人肩を並べて歩く。
遠くの方で、重なり合った厚い雲の隙間から、ゴロゴロと言う音が、誰にも聞こえない程の小ささで響いていた。



……あれから、三年が経った。
隆と章のシフトは何度か変わり、二人が一緒になる時間は次第に薄れていった。
そして、隆が大学を卒業し、就職先が決まる頃には、章はもう隆よりも幾分先に、バイトを止めていた。
どうなったのだろう、と言う微かな疑問を抱きながらも、新生活に慣れる日々は思った以上に大変で。
隆は次第に章の事を忘れていってしまっていた。
……けれど、何故か、彼のあの白い肌と、彼のした猫の話だけが、脳に焼き付いて、離れる事はなかった。
ある日の深夜。残業を終えた隆は、自宅へと向けて車を走らせていた。
自分の車以外に他の車は見受けられない。こんな夜中に、いくら抜け道とは言え民家の中を走る車もそうそういないだろう。
実は国道に続くその道を車で走らせながら、隆はラジオから流れる洋楽を右から左へと聞き流す。
仕事にも慣れ、暫くぶりに彼女も出来た。大学時代自分を振り回していた女とは違う、器量のいい女だ。
細い、曲がりくねった道をゆっくりと通り過ぎてゆく。
周囲は全て民家と言う事もあり、余りスピードは出せないのだ。
だが、苦情が出てこの抜け道が使えなくなる事を考えれば、そんな事は大した苦労ではないだろう。
後300メートルも走れば国道に出る辺りで、隆は正面に何か白い塊を見つけ、思わず急ブレーキを踏んだ。
30キロしか出していなかった車は、さほど大きな音も立てる事無く止まる。
20メートル程先……すぐ近くだ。白い塊が、道路の上に置かれている。
その塊が、ぴくりと動いた。
そして漸く、それが猫である事を理解する。
猫は、相変わらず動こうとしなかった。青い瞳で、じっとこちらを見つめている。
ふと、隆の脳に、一つの言葉が甦った。
猫は、走ってくる車をみると立ち止まってしまうのだと。
よけなければいけない事を分かっているのに、動けないのだと。
何かに突き動かされるかの様に、隆はエンジンを止め、そして車を降りた。
静かに佇みこちらを見つめる白い猫へと向かう。
首輪をしていない。……身元を示す様なものは、一切見つからない。
けれど、その猫を野良猫と呼ぶには余りも綺麗すぎた。
透き通る様な白い毛並みはよく梳かれていて、この暗闇の中できらきら輝いて見える。
雪の様な、強い光の様な、白さ。
その白さが何かを思い起こさせて、だけどそれが何か分からなくて。
隆は、その猫をそっと抱き上げる。
刹那、隆の脳裏に一人の人物が浮かんだ。
猫の話をした、男。この猫の様に白い肌の、男。
「………章?」
ふと漏れた声が、暗闇に虚しく響く。
猫は、甘える様に隆の胸にすりついている。
「お前、ノラなのか?」
猫は答えない。ただ、隆の胸でゴロゴロと咽を鳴らしている。
「俺と一緒に来るか?」
矢張り猫は答えない。だが、何故か隆は、この猫が飼い猫では無いことを確信していた。
何故だかは分からない。けれど、確かに彼は、それを強く認識していたのだ。
猫を抱いたまま、車へと向かう。助手席のドアを開け、シートの上に猫を乗せると、自分も運転席に乗り、シートベルトを締めた。
再びエンジンをかけると、先ほどまで流れていた洋楽が再び流れ出す。
ふと横の猫を見、気怠そうに寝そべっているその姿を見届けると、隆はアクセルを踏み込んだ。
そのエンジン音と、流れる洋楽の音に交じる様に、


白い猫は、初めて「にゃあ」と小さく鳴いた。