幸福的言語観測



それは、ありふれた日常。
誰もが信じようとしないだけの。
もし、この世界の全てが2つの相対するもので形成されていたとしたならば、
闇や光なんて言う陳腐なものに惑わされて前後不覚に陥りながら、
盲目のまま歩かなくてもよかっただろうに。
「………どうしたの?」
女の声に、男はゆっくりと顔を上げた。
「何でもない」
「そんな顔して何でもないって言う気? まあいいけどね」
呆れた様に溜息を吐くと、女は男から離れていく。
その背中を眺める事すらなく、男は再び深く項垂れた。
「……もう、いいんだ」
唇の隙間から、小さな声が漏れた。
安堵と幸福に満ちた、小さな声。
「もう、終わるから………」
誰にも聞こえない、小さな声。


心を測定する機械が例えば存在したとして、
果たしてそれを使おうと試みる人は果たしてどれぐらいいるのだろう?
全てが暴かれる時、全てを理解した時、
人は初めて気づくのだ。
「分からない」と言える程の、幸福はなかったのだと。


ゆるやかな笑みを浮かべて廊下を歩く男に気がつき、女は足を止める。
「……悩み、終わった?」
何でもない事の様にそう訪ねる。
その質問は、本来訪ねる意味が無い事を分かりながらも。
「ああ、終わった」
そして、男も答える意味が無い事を分かりながらもそう答える。
相変わらずの笑顔で。
「……ああ、そうだ」
通り過ぎようとした女を引き留める為に男は呼びかける。
これは必要な言葉だ。少なくとも、人間にとっては。
「何?」
不思議そうに訪ねる女に、男は笑顔を絶やさぬ儘で、唇を開いた。
「一緒に、死んでくれないか?」
それは、まるで朝の挨拶の様な。
何の意味も持たない、只の単語の様な。
それ程にさり気ない、言葉。


そして、女は。
驚いた顔一つ見せず、その表情を笑みに崩したままで。
まるで、昼の挨拶に答えるかの様に、
意味のない科白に返す返事の様に、答える。


「いいわよ」


言葉の存在しない所で交わされる言葉。
それは、誰にも侵される事のない誓い。
誰にも理解することの出来ない……。







幸せって、何?