「あいすべきもの」


まだ何も信じられないなんて、そう言っていた頃
僕はまだまだ、ただの子供でしかなかった
愛を求める事。とか、明日を信じる事。とか
そんなものがあの頃の僕には無かった

ぼろぼろになって、傷ついて、立ち止まる
そんな事すら出来なかった頃の事を
誰かに話せる様になったのはいつからだったか
染みついた記憶は、ゆっくりと僕を大人にしていった

何も知らない子供だったんだ
無垢とか、純粋とか、そういう意味のじゃなくて
ただ自分の世界に籠もっているだけの
周りを見られない子供だったんだよ
馬鹿みたいに、世間知らずで無垢の

思い出してみれば、あの頃より
今の方が、もっと傷ついていたりするんだね
あの頃より、もっと小さくて些細な事が
いつも心に滲みを作って、かすり傷だらけにしていく
でもあの頃ほど生きるのが嫌にならない

ずいぶん涙もろくなったもんだね
誰かを愛して、誰かを憎んで
そんな当たり前の事がやっと出来るようになった
誤解を笑い飛ばして受け止めるぐらいには
大きくなったつもりだよ

陳腐だとかきれい事だとか絵空事だとか
言いたい奴には言わせとけばいいさ
傷ついて、ぼろぼろになって、転んで立ち止まって
それでも走り続ける事になんてなんの問題もありゃしない
だって僕はそうやって生きてきたんだから

ずっとずっと歩んでいこう。先なんか見えなくたって
僕をこの世に留めてくれた全ての人たちの為に
僕の全てを打ちのめしてくれた人たちの為に
世界をゆっくりと見る事を教えてくれた人たちの為に
無知だった僕を、それでも愛してくれた人たちの為に
そして、他でもない僕自身の為に


(平成11年4月発行「逢坂」より)